「ここはラオスの故郷に似ている」ピッツァモンはそう言う。「田んぼがあって、緑豊かで、お寺の屋根が見える。いつか帰りたい」。ベトナム戦争が終わって三年目、彼女は日本にふるさとの風景を発見した。母国の革命は、ラオス外交官の父の任地で知った。高校はパリのリセを出た。大学に入ってすぐ、国を追われて難民ビザのまま日本に来た。私と出会ったのもそのころだ。
「なぜ仏教という共通の教えをアジアは大切にしないの?」彼女はよくそう問いつめた。「ラオスもベトナムも、ビルマもタイも仏教国でしょう。台湾もチベットも中国も同じ仏教国のはずよ」。イデオロギー全盛の当時、アジアはずたずたに分断されていた。東西対立だけでなく、中国とベトナムの紛争も勃発していた。 アジアの仏教国を歩くと、互いに仏教徒であるという事実に安堵する。掌を合わせるあいさつのかたち、汽車に乗って遠くを見渡すと必ず目に入ってくるお寺の屋根や仏塔(それがストゥーパ、パゴダ、五重塔など様々な呼び方であろうとも)、街角で出会う剃髪の僧侶たち、そして何よりも欲望を減じて悟りや救済を目指す平和な教え。米大陸やアフリカ、欧州、そして砂漠のアラブ世界では絶対に味わえない感覚である。
ピッツァモンの故郷ラオスの古都ルアンプラバンに入った。戦争と革命に疲れ鎖国状態だった東南アジアの小国も、開放政策から九七年のASEAN加盟で経済復興にわいていた。母なる大河メコンには、タイ側へ橋が架かり、ベトナム、中国への国境も開いた。リキシャとバイク、それに屋台に代表されるアジアの喧噪が復活していた。
ルアンプラバンは、十四世紀に成立した王国の首都である。十六世紀には首都をビエンチャン(現首都)に譲ったが、なんと七五年、左翼政権パテト・ラオにより王政が廃されるまで、王都として命脈を保っていた。今も生活が仏教と共にあった中世・仏教王国の雰囲気を色濃く残している。
ルアンプラバンの朝は、僧侶に温かいご飯を布施することから始まる。六時、バービエンというショールを肩にかけた女たちは、居住まいを正して、黄色い法衣をまとった僧たちの行列を待つ。托鉢僧は、布施をいただいても返礼はしない。返礼をすると、人々の功徳が無くなると固く信じられているからだ。
十六世紀に開かれたワット・シェントーンは、王家の寺である。一九〇四年、最後の戴冠式でもここが舞台になった。タイの地方文化と見られがちなラオスの仏教美術だが、この寺は紛れもないラオス特有の様式を主張している。軒が深く垂れた木造の主殿、堂の壁一面、朱色の地に鮮やかに描かれた「いのちの木」と称される壁画など。王家の庇護こそなくなったが、仏教復興の流れのなか、今、数多くの小僧たちが、この街で戒律を守り、経典を学んでいた。
この街とその寺院群は、ユネスコ世界遺産に指定された。仏教と生活が幸福に結びついたこの珠玉の王都にも、いずれ日本人が多数観光に訪れるだろう。世俗の垢にまみれたかに見える極東の大国の人々は、この寺に何を発見するのだろう。「アジア共通の仏教」-難民ビザを持っていたピッツァモンの切実な問いかけに応えうる何かを発見してくれるのだろうか。
ワット・シェントーン(ルアンプラバン市)
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples
小僧の休息(ワット・シェントーン)
ワット・シェントーンの主殿正面
巡礼メモ
ラオスへ日本から直行便はない。成田、関空などからタイ・バンコクに飛び、ビエンチャン行きに乗り換えるのがベスト。ルアンプラバンへは、そこからプロペラ機で四十分の旅。毎日三便が就航している。