浄土宗の教え

 

 

私たちの宗旨

  • 名称

    浄土宗

    宗祖

    法然上人〔源空〕(1133-1212)

    総本山

    知恩院 京都市東山区林下町400

    開宗

    承安五年(1175)

    本尊

    阿弥陀仏〔阿弥陀如来〕

    教え

    阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。

    お経

    お釈迦さまがお説きになった『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三部経をよりどころとします。

    HP

    浄土宗公式サイト https://jodo.or.jp/

総本山と大本山

  • 総本山 知恩院(京都市)
  • 大本山 増上寺(東京・港区)
  • 大本山 金戒光明寺(京都市)
  • 大本山 百萬遍知恩寺(京都市)
  • 大本山 清浄華院(京都市)
  • 大本山 善導寺(福岡・久留米市)
  • 大本山 光明寺(鎌倉市)
  • 大本山 善光寺大本願(長野市)

 

 

浄土宗の教え

 

 

お念仏とともに歩む生き方

 

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻七段五

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻七段五

浄土宗は仏教の宗派の一つで、法然上人(1133-1212)が1175年(承安5)に開かれました。
その教えは、阿弥陀仏という仏さまの「私の国、極楽浄土へ往きたいと願い、「南無阿弥陀仏」のお念仏をとなえたあらゆる命が臨終を迎えたとき、必ずそこへ生まれ変わるようにしよう」という誓いを信じて、その導きのもとお念仏をとなえ、悩みや苦しみのない極楽浄土――仏の国へ生まれ往くことを願うものです。

 

「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、インドの言葉「ナマス」の発音を漢字で表したもので、「帰依(きえ)(心身を投げ出し、すべてを任せること)」や「絶対的な信頼」を意味します。つまり、「南無阿弥陀仏」ととなえることは、阿弥陀さまに信頼を寄せ、救い導いていただきたい、との思いを表明することになります。浄土宗の法要で必ず「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえるのは、この教えに基づいたものなのです。

浄土宗の起源とその教え

 

仏教は約2500年前に、お釈迦さま(ブッダ)が獲得された、苦しみや悩みから自由になる「さとり」を目的として始まりました。お釈迦さまは、さとりを得る方法として、相手の性格や状況に合わせた多くの教えを説かれ、それはお経という形で後世に伝わりました。後世の人々が、その中でどれが自分たちに適した教えか、どのお経によるべきかを判断し、さまざまに理解し、解釈したことで複数の流れ、つまり宗派が生まれました。

 

さとりに至るためには、貪りや怒り、迷いの心などに影響されないようにする必要があるとされます。お釈迦さまが説かれた、そのための心の持ち方や生活での実践を心がけることで日々感じる苦しみや悩みを軽減することはできます。しかし、私たちがこの世の中で、貪りや怒り、迷いの心を完全に消し去ることは非常に困難といえます。そんな私たちでもさとりを目指す方法はないのか、法然上人が膨大なお経の中から見出されたのが、現世ではお念仏をとなえ、阿弥陀さまの導きを受けながら生活をし、命が終わり極楽浄土へ往生したのちに、さとりへ至るための実践に励むという教えです。

 

極楽浄土でさとりを目指すからといって、この世での生活を軽んじてよいわけではもちろんありません。お念仏をとなえることは、お釈迦さまと同じく私たちをさとりへ導こうとする阿弥陀さまに「帰依する」と口に出すこと。完全でなくても、さとりを得るための実践を心がけ、日々を精一杯生きることが、阿弥陀さまの願いにそった行いといえるのです。

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻六段三

知恩院蔵『法然上人行状絵図』巻六段三

お念仏をとなえる

 

生きるうえで大きな安心になるお念仏

私たちがいずれ往く極楽浄土は大切な人との再会の場でもあります。あまり考えたくないことですが、私たちの日常である「生」はつねに「死」と隣り合わせといえます。その「死」の後に一体自分がどうなるのかわからなければ、大きな不安になります。しかし、お念仏をとなえることで、苦しみや悩みのない極楽浄土へ往けるのであれば、どうでしょうか。そして先だった大切な人々と極楽浄土で再会がかなうとするならば、それは生きるうえで大きな安心になるはずです。

 

法要などで、ご供養のためにとなえるお念仏は、極楽浄土に届き、すでに往生されたその方が「さとり」を得るための大きな力添えともなります。ですから、お念仏は、ご供養をする方のことを想い、自身が往生した後に再会できることを願っておとなえください。極楽浄土の阿弥陀さまも、その方もあなたの姿をやさしく見守ってくださっています。