専称寺ご案内

 

 

浄土宗。本尊は阿弥陀如来。はじめ下多久の平瀬(現南多久町)に建立され、前多久氏が来てからは多久太郎宗直より五代の間菩提寺となり、宗直が上多久の梶峰山に城を築いたとき(建久2年=1191)、この寺も現在地に移ったと伝えられる。 開山は平安初期大同2年(807)、行基菩薩と伝えられ、当初は天台宗であったが、弘安年中(12世紀)一遍がこの地を訪れたときしばらく居住し時宗に改めた。のち南里の正定寺開山の満恵の弟子暁誉が中興の祖となって、慶長十四年(1609)浄土宗開山とされている。近世後期で「境内一丁十九歩、除地寺領高七石五斗」(丹邱邑誌)。時鐘を宝暦元年(1751)からはこの寺で鳴らすようになった。 近世には末寺が延寿寺のほかに五寺。境内に子安観音堂がある。本堂は文政11年(1828)8月10日の大風で吹き倒され、天保の初め(1833)再建。境内には、江戸初期のものと思われる五輪塔のほか、墓地には少弐の墓のほか前多久氏のものと思われる墓碑がある。 (「平凡社歴史地名体系・佐賀県の地名」より)

History
AD807平安時代
開山 行基菩薩伝説 9世紀平安時代初頭開山・当初天台宗
阿弥陀如来座像(平安時代10-11世紀前半)
AD1191鎌倉時代
本多久移築 12世紀一遍上人伝説
13世紀 : 大ツツジ(樹齢600年)
AD1497室町時代
太宰少弐政資切腹
AD1609戦国・
安土桃山時代
浄土宗開山
暁譽上人 中興
AD1833江戸時代
本堂再建
十王図(浄土変相図・地獄極楽図)

歴史

  • 行基伝説
    大同2年(807)
    当寺開基之儀 大同弐年行基菩薩草創ニシテ天台宗二而有之候(御家中寺社家由緒書)
    平瀬橋より旧平瀬をのぞむ。右上は八幡岳、船山

    僧行基の没年は天平21年(七四九)。寺伝とは矛盾する。丹邱邑誌の作者深江順房は、このことにつき、「順房案二、天平年中二桐野山草創 大同ハ八十年ニ『垂ン』トス『年号ノ書誤カ』」(丹邱邑誌「専称寺」の項)と記す。古代に創建された桐野山妙覚寺(天平年間創建)は、専称寺創建の地とされる多久・平瀬(現在の多久市南多久町)と近い。

  • 多久太郎伝説
    建久2年(1191)
    領主多久太郎宗直より五代之間 菩提所二而御座候 其節下多久村二有之(御家中寺社家由緒書)
    城山・梶峰遠景

    多久太郎宗直は様々な伝承で彩られた人物である。丹邱邑誌(1847成立)、北肥戦記(享保年間=一1716~=成立)、肥前古跡縁起(1665成立)などに伝承がある。九州各地の中世文書に現れる文書と比較して、多久太郎伝説は決して荒唐無稽なものではなく、多久を名乗る武将が、鎌倉時代に多久に移動し定住、梶峰城に拠った在地の武士として存続し戦国時代に至ったのは史実であると推定されている。

  • 一遍滞在
    弘安年中(1278~)
    一遍上人諸国行脚之節 暫居住 以後時宗二相改(御家中寺社家由緒書)弘安年中一遍上人行脚之時、中興ニ暫居住有之、時宗ニと相改候(丹邱古蹟録)
    阿弥陀仏座像
    先住時宗位牌

    伝記によると、一遍は建長3年(1251)13歳の時に太宰府の聖達を訪ね、その紹介で小城・清水(現在の小城市清水)にあった寺で仏教を学んでいる。超一、超二という妻子と思われる尼と子を連れた一遍一行は、他力念仏の踊り念仏を勧め全国を遊行した。建治元年(1275)から弘安元年(1278)にかけて故郷の四国伊予から太宰府ほか九州を遊行している。専称寺には、「前住當山但阿弥陀仏尊霊 寔天文十四年乙己七月十六日」と記した時宗戒名の位牌が祀られている。専称寺の阿弥陀仏坐像は10世紀~11世紀の作と推定され、一遍滞在時には念仏の信仰を集めていた。

  • 切腹
    明応6年(1497)
    明応六年巳四月十九日太宰少弐政資于時五十年 大内義興ニ被攻詰 多久城ニ潛居之末 城主多久藤兵衛心替自害と進候ゆへ 此寺へ来り自害(丹邱古蹟録)
    • 少弐墓地
    • 少弐氏位牌
    • 核割れ梅(多久市天然記念物、佐賀県名木百選)

    政資は室町時代から戦国時代初期にかけての戦国大名、資元はその子。政資は守護大名大内氏とは長年対立したが、大内氏に奪われていた版図を回復し、少弐氏を一時的に中興する。しかし、応仁の乱後、大内勢が再び北九州への侵攻を開始し劣勢となる。幕府より政資の追討令を得た大内氏らの全面攻撃にさらされ、傘下の多久氏の居城である梶峰城に拠った。しかし多久宗時の離反によりそこからも追放され、明応6年(1497)専称寺において自刃した。資元も一時、領土を取り戻すなどしたが、謀略により天文4年(1535)、大内氏に領地を取り上げられ、翌天文5年、、資元は多久梶峰城にて自害した。墓・位牌、資元の伝説がある「核割れ梅」が専称寺にある。

  • 浄土開山
    天文14年(1545)
    天文十四年之比 教蓮上人時宗を浄土宗知恩院末へ被相成候(丹邱古蹟録)
    佐嘉南里村正定寺開山満恵上人 弟子暁誉上人当寺中興 浄土宗開山二而 即南里村出生僧二御座候(御家中寺社家由緒書)
    歴代住職墓地

    天文十四年(一五四五)に教蓮により時宗から浄土宗と変わり、暁譽が初代住持となった。暁譽は慶長十四年(一六〇九)没。

  • 筑紫箏
    元和9年(1623)諸田賢順没
    元亀元年三十八歳の時、龍造寺泉州公の招きによって多久梶峰城に移って一生を終わる。時に元和9年7月13日、法名賢順養普(多久家文書「諸田家系図」)
    賢順の墓(中央、多久市北多久町)

    箏曲の源流である筑紫箏の創始者諸田賢順は、諸田家系図によると天文3年-天和9年、九十歳没とあるが、伝賢順作箏の記述などから天文16年生まれ、寛永13年を没年とする研究が有力。 伝承では幼少の時、父の戦死により久留米の浄土宗善導寺に入り僧になり、同寺で仏事に使われる音楽を学んだという。その後、家族を連れて佐賀の浄土宗正定寺へ行った。賢順は、筑紫箏を完成していった。賢順は、元亀元年(1570)、龍造寺長信に従い多久へ移り、没するまで多久で過ごした。多久家では、奥方や姫たちにより筑紫箏の弾奏がなされた。多久市には、賢順が天正11年に37歳で製作した「伝賢順作箏」や多久家の姫君千鶴が愛用していた「立葵蒔絵螺鈿箏」が所蔵されている。「賢順をしのぶ会」は1980年から毎年、その命日7月13日に専称寺で開催されている。諸田家は古来より専称寺檀徒。

  • 本堂再建
    天保4年(1833)
    本堂六間七間 制禁札カケラル 旧堂文政十一年八月十日大風ニテ倒レタリ 天保ノ初 再建也(丹邱邑誌)
    本堂遠景
    蓮図

    昭和24年の本堂改修の際に、棟札が確認された。文政11年(1828)に台風で倒壊し、多久領主多久茂澄公、住持忍響の代、天保四年(1833)に完成した。写真の蓮図は、本堂再建の際に本尊の背景として描かれた。

    (注)

  • 「御家中寺社家由緒書」(専称寺文書)  専称寺所蔵の多久領・寺社由緒書集である。文化4年(1815)成立で、編纂者は深江順房。造本は袋とじ四ツ目線装本。領内の82寺社、多久家が管理していた佐賀城下3寺社の計85寺社が収録されている。内訳は寺院53、神社18、山伏14。本書は中世の痕跡を残す無縁寺(アジール=聖地、避難所)の記述があることで注目された。平成27年校訂本が出版された。
  • 「多久古蹟録」(専称寺文書) 宝永3年(1746)成立。専称寺写本は文化8年(1811)、深江順房写す。多久領の寺社について記述する。
  • 「丹邱邑誌」(多久家文書)  多久家所蔵伝来の多久の地誌(五巻本=多久郷土資料館蔵)、弘化4年(1847)成立。「丹邱」は多久の美称。東原庠舎教授の深江順房(1771-1847)撰述。巻之一は、沿革、地理など、巻之二・祠廟(105社)、巻之三・仏寺(46寺)、巻之四・堂、庵、古墳、産物など、巻之五・雑識、年代記などで、歴史、地理の総合的記述がある。平成5年に校訂本が発行された。
  • 宗教法人専称寺
  • 浄土宗 光明山 専称寺
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  • Senshoji Temple