マハムニ・パゴダ(マンダレー市)

My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples

マハムニ・パゴダ

 中国が対外開放政策をとりだして、もう二十年以上になろうか。開放当初は、庶民生活でも珍妙なことが続出した。八五年秋、南西部の街・昆明に長居していた。宿の食堂の菜単(メニュー)にビール、コーヒーを発見した。当時、上海、広州など大都市の外国人用ホテルでしかお目にかかれない代物である。驚喜して注文した。
 ビールは、バケツに入れてあった。あろうことかそれをどんぶりですくって持ってきた。コーヒーはカカオの味が混ざった粉っぽいものだった。マンダレーコーヒーとメニューにあった。いずれも飲めたものではなかった。このコーヒーがミャンマー(当時ビルマ)の古都マンダレーを経由して、国境地帯にすむ反政府派の少数民族の手によって、陸路で中国側に運ばれたと知ったのは、ずっと後のことだった。
 以来ずっと、マンダレーという地名は、あの粉っぽいコーヒーの味とともに思い出す。翌年、ある些細な事情から、この国への入国を拒否された。八八年には大規模な民主化運動があった。日本のテレビには小豆色の僧衣を着た僧侶が民衆とともにデモに参加する映像が何度も流れた。九〇年には複数政党制で初めての総選挙、民主政党が選挙で勝利したにもかかわらずいつの間にか軍政復帰、少数民族との戦いも終わっていない。
 アジアの仏教は、政治の嵐に翻弄されることが何と多いことか。中国文化大革命で多数の僧侶が粛正された。モンゴルでも数千人の僧が行方不明になった。ベトナム戦争当時、焼身自殺する僧侶の映像は全世界にショックを与えた。ダライ・ラマは未だラサへの帰還を果たしていない。人々の生活の向上を訴えて、デモの先頭に立ったミャンマーの僧たちは、その後どうなったのだろうか。
 十数年ぶりに願が成就し、この国に入った。マハ・ムニ・パゴダは、古都のイラワジ(エーヤワディー)川の港に近い下町にあった。公園化されている旧王宮の周りは、整然とした町並みだだが、この寺は、馬車、旧式のトラックやリキシャが行き交うごみごみとした庶民の街のただ中にあった。さすがミャンマーで最も信仰を集める仏像を祀った寺である。参拝者が列をなしていた。椰子の実や、仏花を売る屋台が並んだ参道の、毎日が縁日のような人混みを進む。黄金の釈迦仏が、遙か向こうに見える。薄暗い玉座の前で数珠をくりながら経を唱える人々がいる。金箔を買い求めて、この仏像に貼り付けるのが、何よりもの功徳だと信じられている。お釈迦様は、貼られた金箔で元の形を失っているほどだ。
 この国の寺は、僧院とパゴダ(仏塔)に完全に分化している。僧院は僧が小欲知足の生活で瞑想修行にはげむ聖なる空間である。パゴダは庶民のための信仰の広場だ。人里を離れ、戒律を厳格に守る僧侶の集団(十万人を超すともいわれる)がいる一方で、その徳をしたってパゴダには、日々数多くの庶民が祈りに訪れる。この国の仏教もまた、庶民とともにあるかぎり、永遠なのだろう。毎朝、街角には托鉢をする僧の列があり、それに答えて食事を喜捨する庶民がいる。人々の深い喜び、悲しみ、願いとともに仏教があるかぎり、また信仰も絶えることがない──、庶民が一枚一枚貼り付けた金箔が、そよ風に揺れる仏像の前でそう思った。

  • さん然と輝く金剛仏を拝む。(マハムニパゴダ・マンダレー)

  • 小僧たち(左が女性、右が男性)(マンダレー)

    少数民族の子ども(マンダレー郊外)

巡礼メモ

  • マンダレー周辺地図
  •  ミャンマーの首都ヤンゴンへは関西国際空港から直行便が就航している(週三便)。他からはバンコクなどで乗り継ぐ。マンダレーへは空路で約一時間半。陸路の場合は、バスが快適だ。所要時間約十五時間。