ベトナムへは中国南西部の都市・昆明から入った。単線のディーゼルカーに乗り一泊。翌朝、国境の町河口からベトナム側のラオカイへ国境の橋を渡る。国を越えると言語も貨幣も文化も宗教も一気に変わる。ホン(紅)川沿いに列車で首都ハノイに出て、汽車とバスで細長いベトナムをずっと南下した。九四年のことだ。アジアの喧噪と混乱が色濃く残っていた。
グエンに会ったのは、中南部の海辺の街ニャチャンだった。旅に疲れて、海の見える安宿で少し長居した。旅に出るとよく子どもをつかまえて、地元の言葉を教えてもらう。「123」「これいくら?」、子どもは飽きずに何度も、珍しい外国人相手に教えてくれる。そんな子どもの一人だった。確か小学校六年ではなかったか。漁師の子、学校にはたまに行くという。彼の仕事は外国人相手の絵はがき売り。日本円換算百円で売って、売り上げの九割は親方に取られる。平均二十円の収入をあてて、屋台でフォー(ベトナムのうどん)を妹と分けて食べる。それが、彼らの日課である。
ヒンズー教寺院へ兄妹二人を、借りていたホンダのカブ号の前後に乗せて行く。入り口で地元の子どもはお断りという。彼らと共に寺に入らずにいると、これが二人の信頼を勝ち取ったようだ。丸二日、子分気取りで、バイクに乗ってきた。
小高い丘の上に建つロン・ソン寺は、十九世紀に創建されたベトナム人に人気の大仏寺である。近年修復された真っ白い大仏様のお顔が、街の至るところから拝むことができる。六〇年代初め、当時の南ベトナム・ゴ=ディン=ジエム政権の戦争遂行に抗議して、焼身自殺した僧侶らの碑がある。社会に深く関わりを持つ現代仏教の原点である。
境内に入り、子どもらと主殿裏手の階段を大仏をめざし上る。石段の脇にはホームレスの一家がいた。ボロをまとった子どもと親の数人がたむろしていた。グエンが突然、なけなしの千ドン札(当時の日本円換算で約十円)を、両替してくれという。ボロボロの百ドン札を握りしめた彼は、うち二枚を、その物乞いの男に当たり前のように投げるではないか。
アジアの仏教寺院には概して物乞いが多い。そして、人々は当然のごとく極貧の彼らに喜捨をする。寺は共に生きるものたちの空間である。富めるものは貧しきものたちへ、貧しきものも貧しき者たちへ。私もアジアの喧噪の街角で何度も芸人や浮浪者や、そして手足を失った赤貧の彼らに、金を投げたことがある。金を投げることの欺瞞に躊躇したこともある。人が人に施すことの難しさが、身に染みて分かっているつもりである。
しかし、グエンの行為は何なのだ。何ごともないように、自ら稼いだわずかの金から他に分かち恵む。金満日本で子どもの誰が、他人に「施す」ことを本当に知っているというのか。原始仏教以来の徳目は「布施・愛語・利行・同事(同悲)」である。施し与え、慈しみの言葉を発し、他のために行い、人の目線にたち考える。グエンにしてやられたと思う。
階段を上がると、高さ十メートルもあろうか、白い大きな仏様がゆったりとお座りになっていた。キーンと晴れた空のもと、南シナ海の真っ青な海が広がっていた。
ロン・ソン寺(ニャチャン市)
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples
グエン(ニャチャン)
メコンデルタにて(ミト郊外)
巡礼メモ
日本からベトナムへは、成田~ホーチミンの直行便週十六便、関空からも週九便就航。ハノイへも同六便、同二便ある。ニャチャンへは、ハノイ、ホーチミンから空路がある。鉄道ではホーチミンから九時間、バスが便利で速い。