十二世紀に隆盛を誇ったビルマ人の大仏教都市遺跡バガンへは、ミャンマーの旧都マンダレーから船で行った。朝まだ暗い四時、セットしておいた目覚ましが鳴り、急いで旅装を整える。安ホテルを飛び出し、道で地元の人びとが「マツダ」と呼ぶ軽四輪タクシーをつかまえ、港へと向かう。アンダマン海へ注ぐエーヤワディ(イラワジ)河は、この国の大動脈である。河口から一千キロ近いここでも、大きな船が行き交う。港は早朝から、人びとが忙しく立ち働いていた。バガンまで高速船で八時間の船旅、六時半、定時に出航した。
六月、雨期の始まり。乾燥した大地に時折、スコールが降り、河の両側のみどりが少しずつ濃くなっているのが分かる。デッキに立つと朝の風が心地いい。
なぜアジアの仏跡ばかり訪れるのだろう?と自問する。北はモンゴルから南はインド南端までアジア中に散在する仏教遺跡。早朝、托鉢にまわる小僧たち、熱心に祈る人びと、サフラン色の僧衣に身をまとい修行に明け暮れるテラワーダ(上座部)仏教や厳しい自然さらに国際政治と戦うチベット仏教、さまざまな変遷をへながらも今ここに生きている仏教に出会うとハッとすることがある。仏陀以来の信仰が生きているのだと。それだけではない。そこに何かしら日本仏教との親和点をみつけて安堵することもある。
「仏陀以来」と書いた。しかしそれぞれの信仰の内実へ、少しばかり踏み込むと、少し違う風景が現出する。それぞれの地域の仏教は、土地の信仰と混交している。ここミャンマーでは精霊神「ナッ神」という民間信仰と分かちがたく仏教はつながっている。中国では老荘思想、道教の影響が強く、その仏教を輸入した日本では、元来の自然信仰、先祖信仰と相まって、仏陀の仏教とはかけ離れた宗教となり、明治以来の近代がさらに大きな変容をもたらした。
しかし、それでもいいのだと思う。仏教は二千年の間、時代の思潮とともに変わり、土地の人々とともに教義に重大な変更を加えながら、人類の生そのものに強い方向性を与えてきたのだから。船は午後二時過ぎ、パガン遺跡近くのニャンウー村の埠頭に着く。
翌日早朝、遺跡へ自転車を借りてまわった。約八キロ四方の赤い大地の上にパゴダ(仏塔)や僧院跡が点在する。五世紀から十三世紀まで続きモンゴル軍の侵入で終焉を迎えたバガン王朝の宗教都市遺跡だ。当時の人びとの生活の跡は消え、権力の象徴である王宮は破壊され、寺院跡だけが残った。往時五千以上あったとされる寺や仏塔は、今も二千以上が現存する。
最も有名なアーナンダ寺院のなかに入る。高さ五十メートルもあろうという尖塔を持つ十一世紀の遺跡だ。お釈迦様の前世の物語ジャータカの壁画がきれいに残っている。上に登ると、周りにパゴダのネギ帽子のような尖塔がいくつも見える。向こうは雨期で水量を増したエーヤワディ河だ。
太陽の日照りが強くなってきた。宿に戻って午睡でもしようかと思う。帰りがけ旧王都の城壁門の脇に「ナッ神」の祠があった。仏にも土地の神様にも等しく祈る。明日は飛行機で首都ヤンゴンに戻ろうか、それともバスで別の町の仏に会いに行こうか。自転車をこぎこぎ考える。
バガン遺跡(ミャンマー中部)
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples
パガンのハゴダを背景に(パガン)
托鉢する小僧たち(マンダレー)
巡礼メモ
ミャンマーの首都ヤンゴンへの直行便は無い。バンコク、シンガポールでの乗り継ぎが最も便利。バガンへはヤンゴン、マンダレーから毎日一~二便就航。文中のエーヤワディ河を行き交う船も快適である。