バイヨン寺院(シェムリアプ)

My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples

バイヨン寺院

 東南アジア大陸部の国々が、この十数年で一斉に国境を開放した。中国が政治的に安定し、ラオス、ベトナムへ陸のルートを開けた。ドイモイ政策に乗るベトナムはラオス、カンボジアへ。タイもまたラオス国境のメコン川に橋を架け、中国南西部辺境から東南アジアの中心都市バンコクまで一挙に人やモノ、そして情報の流通が自由化した。内戦が続いたカンボジアも、左翼ゲリラの武装解除をすすめ、昨年、待望のタイとの国境を一般旅行者に開け放った。半世紀以上続いた東西対立による壁が崩壊した。
 カンボジアへは九四年、当時繁栄にわき始めていたベトナム・ホーチミンから、公共バスで入った。メコンデルタを遡る十二時間の旅である。手入れされた水田を見ながら、何度か国境警備のチェックを受け昼前には、国境に着く。入国管理と税関の喧噪に二時間、カンボジアに入った。言葉やお金が変化したこと以上に、風景が変わった。同じ気候、植生、いずれも母なるメコンの恩恵を受ける肥沃な大地である。しかし、水田に水が入っていない。稲が立ち枯れている。ベトナムでは田に人が出て忙しく働いていたのが、ここでは誰もいない。国も人も疲弊していた。国境とは不思議なものである。
 仏教の至宝アンコールワット、アンコールトム遺跡群には、歴史的な日本人の落書きがある。十を超す安土桃山~江戸初期のものが、確認された。当時の日本人は、ここをインド古代の釈迦とその弟子たちの拠点だった「祇園精舎」と誤解した。三代将軍家光は使節を派遣し、完璧な平面図を作らせた。(現存するその模写には、あるはずのない「祇園精舎の鐘」や、和風の甍(いらか)が描かれているのだが)。当時数万といわれるベトナム・ホイアン、タイ・アユタヤなど日本人居留地からも、幻の祇園精舎詣でが続き、日本本土からも「数千里之海上ヲ渡リ」(「寛永九年森本右近太夫」の落書より)、遊行への思いを果たしたものが多数いた。一般日本人による国際巡礼の嚆矢(こうし)だろう。
 この遺跡群は十二世紀に最盛期を迎えた水の帝国クメール王権による仏教・ヒンドゥー教の世界最大の遺跡である。その壮麗さといい、規模といい比類がない。細部の美しさにも言葉を喪う。十六世紀の日本人が、伝説の精舎と勘違いし、将軍さえ動かしたことが、現地に立ってみるとよくわかる。
 シェムリアプの村から車で十数分、東西一・五キロ、南北一・三キロの巨大な環壕に突き当たる。ぐるっと周回すると、ヒンドゥー教の神ビシュヌを祀ったアンコールワットの入り口が見える。高さ六十五メートルの中央の祠堂は遙か彼方だ。バイヨン寺院のあるアンコールトムはさらにその奥である。巨大な塔の四面に神秘的な観音菩薩の微笑みがあった。バイヨン寺院の三百メートルを超す回廊には、伝説の歌姫ウプサラが舞い、当時の生活が微細にわたり活写されていた。
 アジアの寺々を巡礼して回ると、こころが透明になる。地元の人々と同じように仏に祈りそして花を手向ける。平和の恩恵として国境の障壁がなくなり、日本人の旅券さえあれば、自由に行き来できる時代となった。御大師さまの四国巡礼ならぬアジア「八十八カ所」古寺巡礼。中国、東南アジア、インドまで、お釈迦さまと「同行二人」の遍路旅に無性に出たいと思う。

  • アンコール・ワットの舞姫のレリーフ(アンコール・ワット)

  • トンレ・サップ湖にて

    ナーガ(蛇の神様)のレリーフ(アンコール・ワット)

巡礼メモ

  • シェムレアプ周辺地図
  •  アンコールワット詣では、以前から考えられないほど簡単になった。日本各地の国際空港からバンコクへ飛び、そこから観光の拠点であるシェムレアプまで直行便が飛ぶ。所要時間わずか一時間ほど。首都プノンペンからも空路がある。