首都ダッカの空港は、喧噪に満ちている。飛行機を降りて、入国手続きへと向かう。「ターンテーブルから手荷物が出てこない、破損している、中身を盗まれた……」。係官へ必死の形相で訴えるものがいる。賄賂を要求しているのか、思わせぶりな仕草をする税関員をやり過ごし、やっとの事で空港を出ると、外は物乞いなど黒山の人だかりだ。「ふうっ」とため息が出る。一昔前のインドよりひどい。
東ベンガル地域では最大の仏教遺跡、マイニマチ遺跡へと向かう。首都から東へ約百五十キロ、国境の街コミラ郊外にある。
牛車にトラック、おんぼろバスと人力車、混乱を極める首都の渋滞を抜けて、ガンジス下流のメグナ川を越えた。狭い道を疾走する車で二時間ほどコミラ市街に入る。第二次大戦墓地に数十基の日本人兵士の墓があった。インパール作戦の戦没者墓地という。持参の香を手向ける。
この国は、国連の定義する世界最貧国の一つである。雨期で、道の両側は水没している。年によっては全国土の三分の一が水害に襲われる。二度にわたる独立戦争で疲弊し、一九七〇年代には飢餓状態に陥った。現在も例えば、平均月収(成人男子)三十ドル以下、十五歳以上の識字率三八%、平均寿命五十六歳、五歳までの乳児死亡率が千人中百二十二人、失業率は三五%を超えたままだ(アメリカ議会統計による)。
国際経済上の辺境、これといった資源もない。仏教の歴史でも忘れられたような位置にある。仏教史上、研究の中心は、ブッダの生きたガンジス流域、仏像の発生したガンダーラ地方からデカン高原北部、密教として完成したチベット、仏教東漸のパミール高原からタクラマカン砂漠そして中国大陸など。バングラデッシュのある東ベンガル地方など、仏教史にはほとんど出現しない。南伝仏教の上座部の教えもまた、スリランカ、タイ、ミャンマーが中心だ。
遺跡は、人知れずバングラデッシュ陸軍の駐屯地のなかにひっそりとあった。許可証を提示して軍用ゲートを抜け、兵隊に案内されて小高い丘に上る。十三世紀にインド亜大陸で仏教の滅亡する直前まで生き長らえた僧院、仏塔からなる遺跡があった。七世紀にここを訪れた玄奘三蔵(602-664AD)の報告によると、二千人の僧侶、七十の僧院、そしてアショカ王柱からなる大仏教センターだったという。写真撮影は兵士に止められたが、今も軍用地、住宅地などからなる五キロ四方に十を超す遺跡が散らばる。
中心となるサルバン僧院を訪れた。百十五の房室を持つ僧堂と大講堂跡が発掘され、その脇に建つ博物館には、様々な出土物に囲まれて巨大な石造の仏陀像(十世紀)があった。地元の観光客が訪れるのか、バラックのみやげ物屋がいくつか店開きしていた。
一億三千万人近い人口で、イスラム教徒が九割弱、残り一割がヒンズー教徒。仏教徒も迫害されながらも少数民族を中心に数百万人は住む。この国東部の商業都市チッタゴン郊外の仏教徒村に、小僧を養成する上座部系の僧院を訪れた。六歳から十六歳まで三十人ほどの小僧たちが、朝五時に起床し、黄色い僧衣をまとって托鉢に出、パーリー語の経典を読むという仏陀以来の僧伽(サンガ)の暮らしをしていた。仏教二千五百年、悠々とした時間が流れていた。
マイニマチ遺跡(コミラ市郊外)
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples
多くの村人より迎えられる(チッタゴン郊外)
牛と老女(チッタゴン郊外)
巡礼メモ
バングラデッシュへは、日本からの直行便はない。シンガポール、バンコクで乗り継ぐのが最も便利。コミラへは首都ダッカからバスで二時間。遺跡を訪れるには現地代理店を通じて陸軍の許可証の取得が必要。