敦煌莫高窟(甘粛省、敦煌郊外)

My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples

敦煌莫高窟

 井上靖の小説「敦煌」が、出版されたのは一九六五年、中学生のころ、この小説を読んだ。見知らぬ仏教世界が、すぐお隣の国に広がっていることを知った。翌年には紅衛兵が結成され動乱の時代が始まった。外交官、新聞記者などいわばプロの「旅行者」の目を通じてしか、中国はウォッチできなかった。NHKで最初の「シルクロード」が放映されたのが一九八〇年。外国メディアが中国奥地に入った初めての事例だ。喜多郎のシンセサイザーと石坂浩二のナレーション、アジア辺境の仏教に強烈な興味を持った。玄奘三蔵の歩いた道、仏教東漸の路程だ。敦煌はその象徴でもあった。しかし中国は、外国人の入国をまだ頑なに拒んでいた。
 一九八二年、香港から陸路で入国する者に限って、中国は外国人に胸襟を開いた。一九八四年、自由旅行のガイドブック「地球の歩き方」中国編が出版された。やっと、あこがれの敦煌へ行ける、そう思った。その年の十月、会社を辞め、妻とともに香港で一ヶ月有効のビザを取得し、陸路で中国に入った。敦煌は、外国人旅行証の提示を求められる準開放都市という位置づけだった。
 敦煌へは鉄道とバスを乗り継いでいく。鉄路で広州から古都洛陽、西安に立ち寄り、二週間かけてあこがれの土地を目指す。黄河沿いを上流へと進み、祀連山脈北を西進した。その間の風景の変化には劇的だ。東アジアの温暖で多湿な気候だったのが、西安を越え山越えすると、乾燥し始めたのが分かる。山に緑が薄れ、山肌がもろく崩れ、巨大な谷にえぐりとられている。蘭州まで進むと集落は川、泉など水のほとりにしか成立しない。ニワトリ、ブタに替わり羊、ロバが多くなる。土地が荒れ始める。祀連山脈越えで乾燥が決定的になる。川に水がなくなり、街はオアシスの街になる。木々は意図的に水を引いたところにしか生えず、水を引いた並木はポプラばかりだ。砂漠が始まった。
 甘粛省の嘉峪関駅に付いたのは十一月も末になっていた。バスで十時間揺られた。少し黒みがかった荒れ地を進んだ。風が乾いていた。砂がやぶれたバスの窓から舞い込んでいた。少し興奮していた。窓の外は真っ暗だ。この地の夜は本当に暗い。
 翌朝、遺跡を訪れた。遙か山河を越えて、珠玉の仏たちに出会うと思うと心が震えた。雪が砂漠に舞っていた。ガイドがそれぞれの石窟を鍵で開いて案内する。よく見なくてはと思う。盛唐期の石窟を中心に十五窟ほど見る。維摩経、観無量寿経のパノラマが、ガイドの照らすランプの向こうに薄暗く広がっている。何年も憧れてきた場所だ、涙が出そうになる。わずか一時間半で案内は終わる。自由にみる事は許されない。雪の降る外に出される。昼食をとる場所がない。閑散とした莫高窟周辺をうろうろ探していると一日二便しかない帰りのバスに乗り遅れた。途方にくれていると、ぼろぼろのマイクロバスが止まってくれた。無理に頼んで街まで乗せてもらう。
 翌日も遺跡に向かう。石窟に入ってやっと落ちつく。北魏以前の石窟を幾つか見ることができた。実に仏の姿が自由である。唐代の様式美、洗練された姿もいいが、こっちの奔放さはたまらない。仏のまた上にまた仏がいます。仏の隣にまた仏がいます。座った仏、椅座の仏、胡座の仏、天部などはまるでアニメだ。観音は実になまめかしい。夢のようなひとときを過ごし、町へ戻った。

  • 鳴沙山前にそびえる莫高窟の代表的な北大仏殿

  • 街の包子(パオズー)はとてもおいしい(蘭州)

巡礼メモ

  • 敦煌周辺地図
  •  北京で乗り換え、敦煌を目指すのが最も便利。その日のうちに敦煌へ着く。敦煌―北京間は週十四便就航。日本から敦煌へ直接乗り付けるチャーター便も要チェック。鉄道も高速化が図られ北京から一泊二日で着く。