景真八角亭(中国雲南省・景洪郊外)

My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples

景真八角亭

 中国の南部辺境の地・雲南省の首都昆明へはじめて入ったのは、外国人の自由旅行が許可されて間もない一九八五年秋だった。緑が多い高原の街の印象がある。誰もがまだ貧しかった。一九九四年、ベトナムへの国境が開いたと聞いて、再度訪れた。単線の線路をディーゼルカーで一泊二日、ベトナムを望む町に降り立ち、国境の橋を越えてハノイへ向かった。九年前、日本への国際電話を申し込んでつながるのに半日かかったのが、即時通話に変わっていた。旅行代理店の店先に「特殊旅游 清邁神秘・浪漫八日游 景洪港・瀾滄江・金三角・泰国」とあった。街角のその質素な看板は「雲南省の内陸港景洪港から瀾滄江(メコン川)を下りゴールデントライアングルを経て船でタイへと至るロマンの八日間の特別ツアー」と中国人に告げていた。まだ日本人にはこの国境の渡河は許されていなかった。
 それからさらに十三年後のことし、やっと夢が実現した。中国の変貌は急激だ。最南端の地は大変なことになっていた。巨大都市へと変貌した昆明からハノイへ、またメコン川の港・景洪(西双版納(シーサンバンナ))を経て、ラオスを縦断しタイ・バンコクへいたる高規格の高速道路の建設が進んでいた。いたる所で巨大な重機が、うなりを上げて働いていた。北京オリンピックまでには完成するのだという。
 北京から二千五百キロ、中国の辺境・景洪は、蜃気楼のようにビルが建ち並び、ASEAN経済と合体を目指す東南アジアへの表玄関に変身を遂げていた。ラオス語と字形がよく似た主要民族タイ族の言語が街に溢れ、熱帯の木々が揺れる。中華人民共和国建国から八年間も、王国が生き残ったここは歴史的、地理的に東南アジアだ。あまたの如来・菩薩を信仰する大乗仏教、漢民族の土地ではなく、スリランカからカンボジアへと広がり、釈迦一仏に信仰を捧げる上座部仏教の地だった。
 タイ族の仏教建築、景真八角亭へ向かう。景洪から西へ約六十キロ、山頂部分まで植林され大増産される天然ゴムの林(一人っ子政策で需要が増す避妊具に使われるそうな)、普?(プアール)茶の茶畑が広がる峠を超え車を走らせる。小さな村の小高い丘の上、菩提樹の大木の脇に風変わりな建物があった。三十一面の複雑な屋根、八角形の亭は、経典を収める経蔵として一七〇一年建てられた。破壊と修復を繰り返し、現在は国の重要文化財に指定されている。近づいて破風を見上げると、象や孔雀など南方の動物がびっしり描かれている。上座部特有のサフラン色の衣をまとった僧が経を上げている。寺の本殿、境内中央に建つ仏塔はラオスの寺とそっくりである。信仰は人と共にある。民族と共にある。中国の西の辺境にはイスラム教が、蒙古の砂漠とヒマラヤの山岳部にはチベット仏教が、そしてここには南伝の仏教がしっかりと息づいていた。国家の枠組みと、信仰の版図は少しばかり違うものだ。
 景洪に帰り翌日、国境を目指す。山を幾つか越え、少数民族の村を通り、途中の町へ一泊して約二百キロ。タイ、ラオスからの資材を満載したトラックと何度も出会い、ラオスの首都ビエンチャン発昆明行きの新型寝台バスとも遭遇した。国境には近代的な町が出現していた。  出入国管理事務所でパスポートに出国印をもらい、人民軍兵士が大した緊張もなく見守る関門を抜けて、バッグをころがして非武装地帯を歩く。二十分も歩いたのだろうか。ラオスの国旗がはためくゲートが見えた。

  • 景真八角亭は仏典を収める塔である。屋根が複雑な形をしている。

  • 送列と出会った(昆明にて)

巡礼メモ

  • 景洪周辺地図
  •  雲南省の首都昆明へ日本からの直行便はない。香港、ソウル、上海乗り換えが便利。昆明-景洪間は一日数便フライトがある。景真八画亭までの公共乗物はなく、車をチャーターするか、地元の観光パックで。