十年ほど前、旅の友人A君から手紙が舞い込んだ。「モンゴルで乗馬の訓練をして、馬で緑の大草原を横断、その後中央アジアの砂漠地帯をラクダでたどり、カスピ海に着いた」とあった。エアメールの便箋も封筒も、長い旅で汚れていた。手紙は極東の豊かな国の日々の暮らしに埋没していた僕に、強い印象をもたらした。一九八〇年代初め、彼にスペイン・マドリードで最初に会ったときは、サハラ砂漠横断の準備に奔走していた二十歳そこそこの青年だった。さぞ、たくましい冒険家となっているだろう。
中央モンゴルの大平原で、初めて馬に乗った。数十キロ先まで見通せる緑の海原で車を降り、遊牧民のゲル(天幕住居)に立ち寄って馬をあてがわれた。日本の競走馬より小振りだが、元帝国・騎馬軍団の末裔だ。手綱とあぶみ(鐙)の使い方に手ほどきを受け、出発である。小一時間で馬に慣れ、遙か彼方の町を目指す。拍車をかけ、並足から早足、そして全力疾走のギャロップだ。夕暮れ時、家に帰る羊の群れを横切り小川を渡り、内股がギシギシ痛むのも忘れ、走る。馬と一体になって風を切る。爽快である。
この国では、今も天幕生活、人馬一体の遊牧が基本である。寺も一九世紀終わりまでは、ゲルによる移動寺院(フレー)であり、チベット仏教による活仏が、部族の聖俗双方の権力を握っていた。馬に乗った夜、ゲルに泊まった。晩秋、夜は冷える。薪ストーブの火が消え、零下十数度まで気温が落ちた。明け方、布団にくるまりながら、巨大なゲル寺院で僧侶が読経する夢を見た。数百キロの範囲で、移動する寺、仏像も経典も数百人といわれる僧も、何年かごとに移動する遊牧民の寺。この地ではかつて寺も馬で旅をしていた。
ガンダン寺は、その旅するゲル寺院が一八三八年、最後に移動した際に、ウランバートルに建設されたモンゴル仏教の中心地である。一九三〇年代の社会主義政権による仏教弾圧と僧侶虐殺の時代も、国家監視の下、唯一、宗教活動を許され生き延びてきた。本尊である巨大な観音菩薩像は、破壊され残骸もソビエトに持ち去られたが、十五年ほど前、再建された。境内にある宗教大学も再開され、数多くの僧侶を輩出し始めている。
寺にお参りした。国営デパートや屋台が建ち並び、トロリーバスが行き交う繁華街を歩き、北京・天安門広場に似た国家中枢が集まるスフバートル広場を横断し、未舗装のほこりが舞う道を登って、寺に着く。チベット語でお経を上げている。バターの油のロウソクが揺れ、お香のにおいもチベットと同じだ。一三世紀半ばにチベット仏教が、この国にもたらされ、蒙古帝国(元)の世祖フビライ=ハンの時代にはアジアの東半分を仏教の世界として君臨した。これ以来、チベット仏教が深く人びとに信仰されている。境内では、歴代の活仏像が立ち、地方から上京した民族衣装の人びとが写真に収まり、五体投地の礼拝をしている人もいた。
二〇〇二年、北京政府と対立し亡命中の法王ダライ・ラマが、この寺を訪れ大規模な法要を行い、熱狂的な歓迎を受けた。しかし、中国はこれに対抗し、モンゴルの生命線シベリア鉄道に向かう鉄道を、中国側の国境で二日間、封鎖した。アジア仏教は、いまだ政治に翻弄される運命にある。
ガンダン寺(ウランバートル)
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples
ガンダン寺正殿(ラサ)
寺の前で記念写真(ガンダン寺)
巡礼メモ
ウランバートルへ成田空港から週二便、直行便が就航する。他にソウル経由は毎日運行、北京経由も便利。旅行自由化で外国人観光客も増え、取り扱い旅行社も多い。