タシ先生の家は、ジョカン前広場の角の二階にあった。チベット人最高の聖地ジョカンの喧噪と、五体投地する人々の群れがすぐそこに見えた。
寺の前に立つ。干からびて垢だらけの座布団を敷き、全身を投げ出しひれ伏すような礼拝をしている多くのチベット人、彼らと共に日本風の礼拝をした。右からも左からも低く静かに「オムマニペマフム」と真言を唱える声が響く。チベットのお香(サン)と灯明に使われるバターのにおいが混じり、むせかえるようだ。暗い拝殿を入ると、仏前に炎が揺れる。七世紀、仏法を広めたソンツェン・ガンポ王が建てた寺である。本尊の釈迦像は釈迦在世中に造立されたとの縁起を持つ。中国、インド、ネパールにまたがるすべてのチベット人が一生の願いとしてここに参詣する。
巨大な摩尼(マニ)車を回し、四天王を両脇に見ながら中庭を抜け本殿に入る。礼法に従い右回りに暗い堂を巡る。阿弥陀堂、薬師堂、観音堂、弥勒(みろく)堂、祖師(ツォン・カパ)堂、もう一度阿弥陀堂と回り、金色に輝く本尊釈迦像にいたる。オムマニペマフムの声が昂ぶっているのが分かる。寺の周りには迷路のような旧市街の路地が広がり、周回道路バルコル(六角街)は、経を上げるもの、五体投地の行をするもの、また民芸品などの屋台をひやかすものらで常に混雑している。
タシ先生とは、学校建設支援の縁で知己となった。彼は私財を投じて、チベット各地に小学校、職業学校を建設している。一九二九年生まれ、彼の人生は動乱のチベット近代史そのものだ。一九五〇年の中国軍のラサ侵攻時にはインドにいた。チベットの改革を信じ米国留学後、中国領となったチベットに帰る。文化大革命に紅衛兵として参加するも、チベット人であることで反革命分子とされ逮捕、六年間の投獄生活を送った。復権後、大学教師の傍ら、英蔵漢の辞書を編纂し、今は工芸品の輸出業務も営む。一九九七年に自伝が米国の出版社から発行され反響を呼んだ。教育基金を設立し、チベット奥地に建設した小学校は六十を超え、職業学校も設立した。
一九九九年秋、先生と共に故郷ナムリン(標高四〇一五メートル)へ学校視察に行った。第二の都市シガツェ近くの川を、豚の皮で作った筏で渡る。四駆車で、川の中、絶壁の小路など究極の悪路を五時間ほどかけて着く。先生が建設した小学校(教室数三)に寄る。片道数時間かかって歩いてくる子もいた。教科書はお譲りのものですり切れ、ノートはなく、机の上の小さな黒板で学んでいた。机もない教室もあった。
「シュンゲー(彼は私の名の発音が難しいらしくこう呼ぶ)今、日本のお寺はどうなってるのだ?」。人民軍ラサ侵攻で、法王ダライ・ラマがインドに亡命し半世紀近く。彼はチベット文化の根幹であるチベット仏教の行く末を真剣に案じていた。発展した産業社会である日本の仏教の現状を説明する。「保育園や福祉施設も寺が経営しているのか」。視察の帰路、シガツェの安宿でメモをとりながら熱心に日本仏教への質問する先生の姿は今も印象深い。
今年、チベット全土で動乱が起きた。気になって先生に、メールと電話を入れた。何度か連絡をとったがどうも要領を得ない。盗聴を気にしているのだろうか。八十歳近い先生にまさか、異変はないと信じている。元気であってくれればいいが……。チベットの人々が、なに不自由なくダライ・ラマへの帰依を表明できる日は遠い。
ジョカン(トゥルナン寺、ラサ)
My Pilgrim’s Note for Asian BuddhismTemples
堂々とそびえるポタラ宮殿(ラサ)
巡礼者たち(ジョカンにて)
巡礼メモ
ラサへは日本から直行便はなく、北京、上海乗り換えが便利。標高三六五〇メートルと富士山より少し低い程度。到着初日は高山病対策のために激しい運動は厳禁。〇六年に青蔵鉄道が開通し、中国各地から列車でも行ける。