このごろ「終活」についての講演に呼ばれることが多くなった。ご存じだと思うが終活とは、「自らの最期のための準備」。遺産の法的処分や、遺言状の書き方などは、司法書士や公証人に任せて、私はもっぱら、死のための心の準備についてしゃべっている。話していて、気づくのは「死」まで「自己責任」の範疇に入ってしまったのかという、ため息にも似た思いである。
昭和30年代までの伝統的家族が健在なころは、人の死も自然であった。家の中で病み、そして死を迎え、野辺の送りまで自宅で行い、家族の成員は、それをごく当たり前のものとして受け取った。今は、施設で老い病院で最期を迎え、葬儀も斎場で行われる。死がちっとも日常ではなくなった。だからこそ終活なる言葉が流行するのだろう。
時代の変化が、死の自己責任化を生み出した、とも言っていいだろう。講演では、臨死体験の話や、死に際しての五つの心構えについてしゃべっている。その五つとは「〇手放す〇許す〇まかせる〇感謝する〇別れを言う」である。
現在の80代の方々は、高度成長期にちょうど働き盛りだった世代だ。昨日よりも今日がいい生活、昨年よりも今年が豊かな生活と、なりふりかまわず前進してきた世代だ。そのために家財も多い。なかなかものを捨てきれない感覚の持ち主だ。
そんな人々を前にものを「手放し」なさい、そして、人との縁を豊かなものにするためにも「許し」なさいと説いている。怒りや怨みをもっていても、ほとけさまにはなれませんよ、あなたの中だけでも許しましょうよ、と喋っている。
そういえば、この頃、遺族から遺品整理が大変だとよく聞くようになった。三世代同居がほぼ無くなり(一昨年の国勢調査で5%を切った)老親と子は別所帯が主流だ。そうすると、親を看取った後に、膨大な親の遺品が残ってしまう。思い出の品だけに、捨てに捨てられないものも多い。こうした現実もあって、自らの死に際して、「手放す」ことの大切さ、仏教の文脈で言えば、ものに執着することの無意味さを教えている。
そして「まかせる」。これは二つの意味で重要だ。子にまかせる、ホトケにまかせる。自我を捨てること、死が近くなって我欲もあるまい。すべて人にまかせる心、そして最期は仏にまかせ、みずからも仏となるという仏教の教えを説く。残りの二つは、案外難しい。死に際して、ちゃんと家族に「ありがとう」といえるか、「さようなら」といえるか。
講演の最後に、尊厳死のすすめを付け加えている。様々な延命処置を施されて、パイプに繋がれたまま何年も生きることの意味があるのかどうか。尊厳ある死を迎えるために、尊厳死協会の発行する「私の病気が現在の医学では不治の状態であり、すでに死期が追っていると診断された場合には、徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切お断りします」などとする宣言書を紹介、終活の講演を終わっている。一度、自らの最期を真剣に思ってはいかがでしょう。(住職独白)