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ろんだん佐賀 8 佐賀弁ラジオ

 佐賀唯一のAMラジオ局NBCラジオ佐賀で、パーソナリティなる番組の進行役を務めて17年となる。同局は58年開設、今年で放送開始53年と、県内放送局では最も古い会社だ。08年の調査会社ビデオリサーチの調査によると、平均聴取率約3㌫、県内外の聴取エリア人口百万人として、約三万人の人々に聴いて頂いていることになる。
 それはひょんな事から始まった。94年お正月のゲストとして、当時映画の自主上映団体のスタッフだった私は、番組に呼ばれ、映画のことをおしゃべりした。それがうけたのか、三月にもう一度ゲスト出演、そのまま四月から番組を担当することとなった。新聞記者としての経験は少しはあったものの、放送は全くの素人。今考えれば冷や汗ものである。
 担当は土曜日の朝ワイド(約2時間)と呼ばれるバラエティ番組でお相手は、メキシコ人の女性だった。日本人と結婚して、ほぼ日本人化していた彼女本来の、ハッピーなラテン気質をおしゃべりのなかで引き出そうと、懸命だった記憶がある。
 その後、月曜日、火曜日の朝ワイドを経験し、開局40周年での企画「わが町大好き」と題した生の現地オンエア番組を担当した。当時、佐賀県は49市町村、1年間のワンクールが55週だから、ちょうど全市町村を回れることとなる。町村長さん、JAの組合長さん、婦人会長さんなど町村の代表に集まってもらって、1時間半の番組を制作した。町の特産物紹介、名所の紹介などで、担当者に話してもらったりもした。いつも通っている市町村でも、知らないことが多く驚きの連続だった。評判がよかったのか、3年間番組は続いた。
 あるとき、ふと気付いたのが、番組は佐賀弁で進行する方が、ゲストの反応がよく、本音を引き出せるということだった。それまで、「一応」公共放送ということを意識していたのかどうか、標準語でおしゃべりしていた。ところが、ディープな佐賀弁で、番組を進行したとたん、番組が深く、テンポがよくなった。
 実は「標準語」なるもの、明治維新初期に国家統一の国策として、また当時の言文一致運動の成果として、始まったものだ。日本放送協会(NHK)がラジオ放送を開始してすでに90年近く、今や誰もが標準語を話す時代である。地方から上京して、なまりが気になるという時代でもなくなった。方言と標準語が、すぐ切り替えられる世代ばかりとなった。
 在京キー局のアナウンサーが、地方で取材するのに、無理に方言を使うのに、私は違和感を持つ。また、地方局の番組進行に、標準語を使っているのにも同じように、微妙にそぐわない感覚を持つ。地方放送局が、標準語を使う時代が終わりつつあるのではないかと思う。佐賀弁のニュースショー。天気予報があっても良いではないか。「今日はがばいよかニュースがあっですばい」とニュースキャスターがしゃべる番組があっても良いではないか。
 ここ数年は、スタジオにゲストをお招きしての対話番組を担当している。お相手が佐賀出身、佐賀在住の方には、当然ながら、佐賀弁でお相手をしている。その方が、ずっとテンポの良い番組に仕上がるからだ。災害放送でその重要性を見直されたように、電池一個さえあれば聞けるラジオ、スマホによるリアルタイムの番組を聴くIPサイマル放送も始まった。弁当箱大の機器さえあれば、どこからでも放送できるラジオ、最もシンプルな媒体であるラジオの未来を信じてやまない。(「ろんだん佐賀」と題された原稿は、佐賀新聞社「ろんだん佐賀」として掲載されたものの転載です)

| ろんだん佐賀 | 11:35 AM | comments (0) | trackback (0) |

ろんだん佐賀 7 私の深夜特急

 作家沢木耕太郎の紀行小説に『深夜特急』がある。70年代のアジアから欧州までのバックパッキングの旅の記録である。私も、完全陸路ではないが、85年秋から一年半、アジア・欧州を妻と旅をした。自由旅行が解禁となった中国大陸をまず目指し、陸路で広州に入り、そこから中国西域を中心に、二ヶ月滞在、正月はタイのプーケットで過ごした。バンコクで、アジア各都市に降りることのできるアテネ行きのバングラデッシュ・ビーマン航空の安チケットを買って、インドに渡った。
 80年代のインドは、まだ経済発展に出遅れ、混沌としていた。あこがれの仏陀の遺跡を回りネパールに入った。トレッキングも、ポカラを起点に、アンナプルナベースキャンプまでひと月、山を歩いた。首都カトマンズで、中国チベットへ自由旅行のビザが発行されると聞きつけ、ヒッチハイクなど苦労を重ねて、ラサを訪れた。そこで、パキスタンへの国境が開いたとの情報を入手、タクラマカン砂漠の東北部をぐるっと大回りして、一ヶ月かけてパキスタンとの国境クンジェラブ峠(標高四七三〇㍍)を超えて、さらにインド、ネパールに戻った。その後、スリランカ、モルジブを経て、アテネへと飛んでトルコを経て、ロンドンに三ヶ月滞在した。欧州を観光し、最後はモスクワからシベリア鉄道でイルクーツクへ。空路で日本海側のナホトカへ飛んだ。
 イルクーツク空港でのことだ。ビエンチャン(ラオス)、プノンペン(カンボジア)、ハノイ(ベトナム)、そんな町への定期航空路が、開設されていた。ハッとした。いずれも、当時、自由な旅行が日本人には禁じられていた国々だった。
 89年の壁崩壊、91年のソビエト連邦解体で、旅行の環境がガラッと変わった。東欧、中央アジア、インドシナ三国の旅が、自由に解放された。中国も、辺境部の国境を次々に開けた。東南アジア大陸部の国々が、この二十年で一斉に国境を開放した。中国が政治的に安定し、ラオス、ベトナムへ陸のルートを開けた。ドイモイ政策に乗るベトナムはラオス、カンボジアへ。タイもまたラオス国境のメコン川に橋を架け、中国南西部辺境から東南アジアの中心都市バンコクまで一挙に人やモノ、そして情報の流通が自由化した。カンボジアも、待望のタイとの国境を一般旅行者に開け放った。半世紀以上続いた東西対立による壁が完全に崩壊した。現在、上海に降り立つと、様々な陸路のルートで、ロンドンまで行ける。
 こんな経験もあって95年の阪神大震災でボランティアをした僧侶の友人と、テラ・ネット(Terra Net)という、海外教育支援の団体を作った。お寺で募金を集め、二年間一万㌦で学校を各地に建てる活動をここ十五年ばかりしている。バングラデシュ、チベット、タイ辺境部、スリランカ南部、そしてカンボジアと、学校(寄宿舎)を建てた。こんな活動もあって、私の深夜特急の旅を含め、この25年間で九百日以上海外に滞在した。
 昨年、支援しているカンボジアの首都プノンペンにある「希望の家」を再度訪れた。日本人が個人で運営している孤児たちをあずかる施設だ。東南アジア特有のまったりとした空気が流れていた。孤児たちの元気さ、明るさが本当に嬉しい。東日本大震災では、テラ・ネットは、三度現地に入り活動した。この活動はまだまだ続きそうだ。

| ろんだん佐賀 | 11:33 AM | comments (0) | trackback (0) |

ろんだん佐賀 家族と宗教

「家の宗教」のなにが悪いのだろう?前世紀の後半、この国ではひたすら「個の確立」が求められてきた。自由な主体であるこの「私」の判断が最も大切と教えられてきた。「イエ=家族」や「ムラ=地域」の論理は、近代的自我にとっては桎梏であるとされた。
 宗教の世界でも西欧キリスト教をモデルとした、個人の信仰の必要性が叫ばれた。しかしどうだろう? この世には今、肥大した自我の亡霊たちがあちらこちらに出没していないか?
 家族の絆が弱まろうとしている現代こそ、家の宗教が必要なのではないか。五十歳以上の壮年世代、老年世代の定点観測を続けている博報堂生活総合研究所「HOPE レポート」は、「カギとなる人間関係は、『家族』が一番」と報告する。中高年世代にとって「楽しみとなる関係」は順に、自分の子ども、配偶者、兄弟(姉妹)、孫と続く。家族が拡散しようとも、縮小しようとも、いやそうであるからこそ、伝統的な家庭に居場所を求める意識が強まっている。
 ただやっかいなのは、家庭での食の崩壊だ。子どもや若者に欠食、孤食が常態化した。スナック菓子の朝食、家族がそれぞれ別のコンビニ弁当を食べる夕食、こんな「異常」な食生活がはびこっているという。NHKによると家族そろって食べるはずの夕食よりも、学校での給食を「一番楽しみにしている」と答えた小学校五-六年生が四割近いのだそうだ。
 だからこそ、フォーマルな食の場が必要なのだ。お正月、お盆など年中行事の食の場、また、一周忌、三回忌など伝統仏教が大切にしてきた年忌供養もそうだ。実は、こうした供養の場は「家族の再現」の儀礼だと思う。むろん、経をとなえ、香を焚き、花を供えて亡き家族の一員を追善供養する儀式ではある。しかしそれとともに、かつて故人と一緒に、兄弟姉妹として、また親と子、夫と妻として食卓を囲んだ家族、親族が再び集い、食を共にするという意味こそ、現代社会では重要なのだ。読経、法話をおえ、御斎(おとき)の席に着き、在りし日の食卓を再現する。調理の「火」を共有することが、家族という単位の条件であるならば、定期的にホトケとともに食し合う儀礼とは、連綿と続くいのちの連なりを確認し、家族の親和性を認め合う場であり、また亡き父母の面影を追い、ホトケの前で息子は父のように、娘は母のように生きることを学ぶ場なのだ。また、見えづらくなっている家族のつながりを基礎づけしている装置が、お墓や仏壇だと思う。家族を基礎づけしているのは、宗教性ではないかと思う。
 余談だが、東日本大震災で、生涯のパートナーを得ようとする人が増えているという報道があった。都市部の女性を中心に、結婚相談所への相談が相次ぎ、王手相談所では対前年比25㌫増が続いているという。また婚約指輪の売上が、大手デパートで4割増という数字もある。来年あたりの国の調査で、婚姻率、出生率の上昇が見られるのではないかと想像する。
 未曾有の大災害で、家族の必要を若い人々が少しずつ増えているのではないか。現在三十歳の未婚女性の半分、三十五歳未満の約七割が、生涯結婚せず未婚のまま一生を終え、女性の生涯未婚率は、場合によっては二割を超すことも十分現実的だ(国立社会保障・人口問題研究所推定)というシングル社会の一定の歯止めになってくる可能性を信じたい。

| ろんだん佐賀 | 11:42 AM | comments (0) | trackback (0) |

ろんだん佐賀 5 生死観の喪失と再生②

 ある人類学者は、この国の死についての意識を、こう記した。「現代社会は、ごく近い将来自分が確実に死んでいくこおとを悟った人がいだく疎外感を解消するような、文化的な装置を失った」(『日本人の死のかたち』朝日新聞社刊)。終末期における延命治療も「死なないことよりも大切なことがない」(同書)。果たしてそうだろうか?
 この四月、乳がんで亡くなった元キャンディーズの田中好子さん(享年55歳)が、逝去するひと月前に録音された音声が、葬儀の場で流されたニュースを覚えてらっしゃる方も多いだろう。「こんにちは。田中好子です」で始まる声は、こう続いた。「必ず天国で(東日本大震災に)被災された方々のお役に立ちたいと思います。それが私の務めだと思います。妹夏目雅子のように支えて下さった皆さまに、社会に少しでも恩返しができるように、復活したいと思います」「幸せな幸せな人生でした」。かすれるような弱々しい声ながら、きっぱりと自らの死を見つめ、いわばホトケとなって、現世に還り、恩返しをすると誓っている。
 死について学ぶ死生学の創始者ともいうべきキュブラー・ロス(1926-2004)は、死に至る心の変わりようとして五つの段階「否認と隔離」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」とした。そこで受けいれられる死とは現実世界との完全な分離であった。しかし五十歳代後半になって彼女は、主として子どもたちの死の臨床に立ち会い重大な立場の変更をする。死を迎える子どもたちが、「蝶」に身を託してこの世を去る事例の多さを語り、マユ(つまり肉体)を離脱するように死に行くという(『続・死の瞬間』)。つまり死に至る最期の段階に「希望」を置いたともいわれる。人生の最期に希望を刻印する科学者たる彼女の変化は、近代の他界観の再生に大きな影響を与えたともいわれる。
 京大教授で宗教学のカール・ベッカー(1951~)は、最終的に「生死の意味を求める存在」が人なのだという。人生のラスト・ステージで人はなにものかとつながりを求め、自分なりの意味を創造しようとするという。彼は、研究の積み重ねのうえに、死後の存在を否定するだけの態度は学問としても「幼稚である」と断言する。
 終末期医療などさまざまな現代医学のタブーをつく漫画「ブラックジャックによろしく」(講談社、佐藤秀峰著)が、広範な若者に支持されている。主人公の若い研修医は、末期ガン患者を前にこう叫ぶ。「死とは一体なんですか?死とは敗北ですか? 死は絶望ですか? 死とは不幸で否定されるものでしかないのですか?」。抗ガン剤治療など医師としてぎりぎりの選択を続けながら主人公は死と共存する医療、ホスピス(ビハーラ)など終末期の死の心理的、身体的痛みを緩和するケア病棟を指向する。「生と向き合う事は死と向き合う事と同じ事ではないですか」「私たちは誰も独りなんかじゃない」。作者は主人公にこう言わせている。
 田中好子さんの事例は、古来より日本人が持っていた他界観の典型例である。つまりこの世(此岸)からあの世(彼岸)へ向かい(往相)、そして極楽世界からこの世に戻り、慈悲あふれる菩薩道を行う(還相)。中世より、カトリックの修道士はあいさつに「メメントモリ」という言葉を使う。意味は「死を想え」である。生のなかに常に死をはらみ、死を想うことの重要さに私たちは気付かなくてはならないと思う。

| ろんだん佐賀 | 11:28 AM | comments (0) | trackback (0) |

ろんだん佐賀 4 生死観の喪失と再生①

 日本人は、東日本大震災で、二万数千人という大量の死を共有した。戦後の混乱期以来の膨大な犠牲者の数である。「がんばろう日本」のかけ声とともに各地で復興へ様々なイベントが行われている。同時に、横死した犠牲者への追悼の儀式で、合掌する人々の姿が数多く見られる。この国の「死のかたち」は、三人称の死については案外と寛容である。地域共同体が崩壊しつつあるとはいえ、知人、親族の死に際し、葬儀には数多くの人が詰めかけ冥福を祈る。
 二人称の死、つまり「あなた死なないで」と呼びかけることの出来る縁者(家族)の死についてはどうだろうか。「佐賀のホスピスを進める会」(宮本祐一代表=元県立病院好生館副館長、会員96人)は、医療関係者、僧侶、主婦らからなる、好生館緩和ケア病棟(ホスピス)のボランティア団体である。毎週、ホスピスで、末期ガンなど終末期の患者さんへ傾聴ボランティアをするとともに、9年前から多久東部中で「生と死の準備教育」を、年間6回行っている。筆者も会員の一人で何度か、生徒たちとのワークショップに参加した。現代の子どもたちは、伝統的家族の縮小で、身近なもののリアルな死を経験したものが少ない。死そのものの意識が不在である。そんな子どもたちに、いかにして人生の終末を教えるか。
 「あと半年の命といわれたらどうする?」。数人の班に分け、ゲーム形式でワークショップを始め、そんな質問をする。「あと十日の命だったら?」「あと三日後に死ぬといわれたら?」。様々な答えが返ってきた。しかし、話しを繰り返しているうちに「お父さんといたい」「お母さんといたい」をいう返事が増えてくる。死に際して家族の縁、絆の発見を子どもたちは体験する。縁に結ばれて、死を迎えることの重要さに気づく。
 何度かの同会による授業の後、毎年12月には、好生館のホスピスへ中学2年生全員が訪問し、患者と交流をする。死期が近い患者へ、メッセージを添えて一生懸命作ったグリーティングカードを渡し、歌を歌ったり、お話を聞いたりする。涙を流す子どもたちも大勢いる。中学生は、この体験で目の前に命と直接向き合う人がおり、死の苦しみを自ら経験し、死のリアリティを学ぶ。同会の平川義雄事務局長(白石町大弘寺住職)は「死が観念的に過ぎなかった子どもたちが、現実として死が存在することを知り、死にたいし畏敬の念が芽生える」という。
 東日本大震災の大量の横死者の苦しみにたいし、現代日本人の他界観・生死観が試されている。生死を隔てても、縁が切れることはない。死者との縁を、人は持ち続ける。二人称の死にたいし、「ホトケ」という、極めて楽な場所(極楽)にいるもう一人の家族が増えると思うことが出来ないだろうか。我々を守ってくれる「ホトケ」が、死を超えて、存在すると、思うことが出来ないだろうか。団塊の世代が80歳代になる20年後の大量死の時代をひかえ、日本人の他界観が、「死が生と連続」するものだと信念を持ち、畏敬の念を有する宗教性を帯びることが必要だと、心から思う。
 ある僧侶は、自らも末期ガンとなり終末期の手記のなかで、ホスピスで一緒だった患者仲間から「死んだらどうなるのか」と尋ねることが多く、必死で仏教を説いたと書いている。「一人称」の死が、人間にとって、さらには宗教者にとっても究極の課題である。次回に詳述したい。

| ろんだん佐賀 | 11:26 AM | comments (0) | trackback (0) |

ろんだん佐賀 3 変わる死のかたち

 佐賀県は昨年4月、自立して暮らすことが出来る健康年齢(07年現在)を発表した。これによると県内男性が76・79歳、女性が82・06歳だ。問題は、寝たきりや認知症などで誰かに依存して暮らすことを余儀なくされる平均寿命との差である。これが、男性は1・89年、女性にいたっては4・25年もある。人生の最期をいかに過ごすか、具体的にいうと誰に世話をしてもらうか。かつて共同体として堅固であったイエ(伝統的家族)やムラ(地域共同体)の崩壊とともに、これが非常に大きな課題となっている。宗教者として死の現場に立つことも多く、そのかたちが大きく変わったことを実感する。
 死はかつて、家族とともにあった。家族の成員の老いを自宅で介護し、家族全員が、その死をイエの座敷で看取った。三世代家族が健在のころは、祖父母、父母の死に寄り添い、死を自然なものとして、学ぶことができた。死を「お迎え」と表現したように、生の延長上に死は存在した。また葬送は、長年生きてきた自宅で、ムラの相互扶助として行い、共同の墓地に埋葬された。いわば、死が家族にも村人にも共有されていた。
 前回述べたように、老いや死が家庭から放逐される生老病死のアウトソーシング(外注化)の時代、老人施設で老い、病院で死に、斎場で葬儀が行われる。昨年、厚労省が発表した人口動態統計(06年統計)によると、83・1%が、病院・診療所・保健施設で亡くなり。自宅で最期を迎えることができたものはわずか12・2%に過ぎない(自宅といっても前回詳述したように半数以上は単独世帯、二人世帯であり、こここには孤独死も含まれる)。同省の厚生白書によると、89・1%が自宅で最期を迎えたいと希望していたにもかかわらずである。現代人にとって、身近な者の死が縁遠くなり、死が自然ならざるもの、なにか異様なものとして、認識されていないだろうか。死の学びの場所がなくなって、健康幻想と相まって、死をできるなら考えたくないもの、なにか畏怖すべきものと考えていないだろうか。
 さらに大量死の時代がすぐそこまでやって来ている。厚労省の同統計では、09年の死者数は114万人あまり、それが国立社会保障・人口問題研究所の最新の推定によると、団塊の世代が80歳代になる30年には、4割増の163万人に増える。それに加えて、5人に1人が生涯独身というシングル社会も到来する。昨年1月放送されて大反響を呼んだNHKの番組「無縁社会」で公表された身元不明の行き倒れなど「無縁死」年間3万2千人という衝撃の数字も含め私たちは、死の無縁化の始まりの時代を生きているのではないか。
 死を生のなかの「異物」としないためにも、身近な者の老いや死に対し、徹底的に寄り添うべきだと切実に思う。独りで死ぬことの悲しみは死者本人が一番知っているはずだ。だからこそ、いずれ自らも通過する死を疑似体験するためにも、また家族や地域のかたちが変わろうとも、老いや死の苦しみをいたわり、家庭で共に時を過ごす努力をしなくてはならないと考える。「在宅ホスピス」など、イエで最期を看取れるインフラ作りも急務だろう。さらに、死を教える宗教的言説にも、少しは謙虚であってほしい。「死は自然なものである。死は生から断絶したものではない」。そう教える様々な宗教の教えに学ぶものが多いのではないかと思う。

| ろんだん佐賀 | 11:17 AM | comments (0) | trackback (0) |

ろんだん佐賀 2 縁こそすべて

 仏教は、自我を否定し,「縁」こそすべてと説く。地縁血縁という言葉がある。かつて、地域(ムラ)と家族(イエ)という共同性の中で人は生きてきた。前回、ムラ(地縁)の崩壊について書いた。今回はイエ(伝統的家族制度=血縁)が崩壊している現実を指摘する。
 昨年10月行われた国勢調査の速報が、自治体レベルで公表され始めた。佐賀県も昨年12月末、第一次速報を発表した。それによると、佐賀県も世帯の平均人数が3を切った。2・88人だ。10年調査では、まだ最終報告の数字が出ていない。05年全国調査で、家族の崩壊を検証する。世帯構成人数で一番多いのが、2人世帯28・2%、次いで単独世帯24・6%。この二つで半数を超える。平均で2・55人だ。未婚率の上昇も止まらない。同調査で30代前半男性の未婚率は、47・1%、同後半で30・0%、80年代からじりじり増加している。国立社会保障人口問題研究所は「現在30歳の未婚女性の半分、35歳未満の約7割が、生涯結婚せず未婚のまま一生を終える」と推定し、さらに「女性の生涯未婚率は、近い将来15%を超え、場合によっては2割を超すことも十分現実的。5人に一人は一生独身という社会がおとずれる」と分析する。離婚率もじわじわと上昇を続けている。厚生労働省の人口動態統計(09年度)によると、婚姻数が約71万組、離婚数が25万組、乱暴な表現になるが、実に夫婦のうち三分の一が離婚しているということになる。「無縁社会」「シングル家族」到来の現実だ。
 三世代同居も大幅に少なくなった。同省の国民生活基礎調査(05年)によると、全世帯の9・1%しかない。その代わりに単独世帯が年々増殖している。伝統的家族の特徴である「家名」「家産」の同一性の保持などとうてい困難になり、ましてや「おふくろの味」など「家庭内の伝承」が、幻想に過ぎなくなっている。
 釈迦は、人生を「苦」と説いた。「生老病死」の四苦である。かつて、人生の実相=苦しみすべてが、家庭内にあった。家庭内で出産し(生=生まれる)、老い、病み、そして死んだ。家族は、これららの苦しみを間近にし、生死,そして命のあり方を学んだ。しかし現代、これらはすべて家庭から出て行った。産院で産み、老人施設で老いを過ごし、病院で病を治し、そして死ぬ。葬儀までも、斎場で行われる。産みの苦しみも、老いや病の苦しみ、そして死苦も家庭から追放された。縮小した家族は、苦を共有できる場ではなくなった。「四苦のアウトソーシング」という事態が完成した。(昨今の殺人など、凶悪犯罪の増加は、幼少時に人生の実相=苦をしらずに育った世代の増加も関係しているのではないか。)そしてそのすべてが税金・私有財産=貨幣で決済される。縁とは、本来、金銭で買えるものではない。しかし、現代家族は、縁までも金で決済しようとしているのではないか。
 縁の復活はないのか。筆者は、各種の儀礼こそ、縁再生の最重要要素だと考える。正月やお盆に、縮小する世帯を超えて、家族やかつて家族であったものが再会し、一つの食卓を囲む。結婚や葬送の儀礼もそうだ。また村祭りで、地域の成員が一堂に会し、時には酒を酌み交わず。筆者は、かつての大家族、つきあいが複雑な村の復活を願っているのではない。縁の保持こそ、縮小する家族、崩壊する地域社会の中で重要だと思う。

| ろんだん佐賀 | 11:12 AM | comments (0) | trackback (0) |

ろんだん佐賀1 ムラの崩壊と再生

  「私はこの町に生まれた。だからこの町に住んでいる。私の子どももこの町に住むだろう」。同語反復にも似たこの言葉が好きだ。高度成長時代と違い、現代社会は定住社会へと向かっている。しかし、共同性を特徴とした「ムラ」社会が根底から崩壊し始めている。集落として成立できない地域が、増殖している。定住社会以前の問題が、顕在化している。筆者が住む多久市を例にとってケースワークとしよう。
 多久の人口は、11月末現在で21878人(住民票ベース)だ。昭和29年の市制施行当時から半減した。国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が五年ごとに発表している「日本の市区町村別将来推定人口」(08年12月)によると、高齢化率がもっとも進む35年には人口15551人と05年比で68・4%と激減する。佐賀県全体で見ても、同年比82・1%の減少だ。問題は共同性を持つ集落が、崩壊している点にある。多久市には特老ホームなど定住施設を除外すると、107の集落がある。限界集落という概念がある。65歳以上の高齢者が、人口の半数を超え、自治、共同施設の管理など共同体としての機能ができずやがて消滅する集落とされる。多久ではすでに、4集落が限界集落に転落した。自治機能を、複数の集落で合併して行っている地区もある。世帯数10戸以下の集落も10存在する。
 高齢化率の増加も著しい。総務省統計局の推定で今年の全国の高齢化率は、23・1%だ。多久市は、同27・1%、この数字は、日本の10年後の数値とほぼ合致する。社人研の同調査によると35年に多久は高齢化率38・6%、05年比で、年少人口6割減、生産年齢人口も4割減となる。恐ろしい数字だが、現実を直視しなくてはならない。よほどの社会事情の変化がない限り35年ごろまでには2ー3割の集落が自治不能となってしまうだろう。
 多久は森林と水田に囲まれ一見すると「ムラ」に見える。しかし農家が激減した。今年行われた世界農林業センサスでは、主業農家が175戸しかないのだ。全世帯数のわずか2・2%だ。伝統的に農家は地域の共同性を重視してきた。水田の水管理など農はかつて、ムラ社会共同性の中心を担ってきた。その農家がいないのだ。もはやムラの崩壊と言っていい事態である。これらの数値は多久だけの傾向ではない。県内の山間地、中山間地と呼ばれる自治体すべてに共通するものなのだ。
 ムラの再生はあり得るのか。筆者は、十年前から「ゆい工房」というボランティアによる地域の生涯学習団体に参加し、寺のギャラリーを講座やコンサートに提供している。先月、全編オリジナルのミュージカル公演を制作し、大ホールが満席になるなど大成功した。市民の出演者も客席も感激の舞台だった。昨年からは、県警主催の「子どもの居場所作り事業」に寺を開放している。幼児虐待や性犯罪の被害者、非行経験を持つ子どもたちとボランティアが、一晩を過ごし語り合う会だ。これらのボランティア事業に参加してよく分かることだが、人と人との濃い関わり合いがそこに生まれていることに気付く。かつてはムラが担った共同性が、そこに発生している。
 多くの自治体、集落のダウンサイジングは必至だ。だからこそかつての青年団、婦人会に代わり、こうしたボランティアなど、市民同士が関わり合いを持つ基盤づくりが急務ではないか。地域の芸能、文化、福祉などを担うNPO作りが急がれるのではと思う。

| ろんだん佐賀 | 11:10 AM | comments (0) | trackback (x) |

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